ウクライナ東部の街プチーヴリ&スムイは今

ウクライナ🇺🇦

ロシアによるウクライナ侵攻から半年以上が経過しました。しかし、戦況は泥沼化しておりまだ収拾がつかない状況であります。両国間の平穏はいつになったら戻るのでしょうか。

侵攻初期に早速標的となり、激戦地となった東部の町は徐々に奪還されているようですが、以前のように元に戻るのはまだ先のようです。

とりわけ、私が気になっているのはその都市の一つであるプチーヴリとスムイ。スムイやその周辺の町も4月にはロシア軍から奪還したようですが、傷跡は決して浅くはないでしょう。自分が足を踏み入れた都市の変わり果てた姿を見たときは思わず言葉を失いました。

そんなプチーヴリとスムイですが、現在はどうなったのでしょうか。

スムイの中心地 2017年3月撮影。

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プチーヴリとスムイは2017年3月に訪問しました。スムイの宿泊先ではロシア史畑の日本の方との奇跡的な出会いをし、一緒にプチーヴリを散策した思い出がありました。

本題に入る前に、まずはプチーヴリがどんな町かをサッとおさらいします。

プチーヴリは作曲家A・ボロディンが『イーゴリ遠征物語』を題材に書いたオペラ「イーゴリ公」ゆかりの町として有名です。また、イーゴリがポーロヴェツ人の軍に敗北し、捕虜となった時に妻で公妃であるヤロスラーヴァナがプチーヴリの城壁で有名な嘆きの詩を詠った地もこのプチーヴリでした。その姿のヤロスラーヴァナの銅像は主な観光スポットとなっています。

さらに特筆すべきは、プチーヴリはイヴァン雷帝の末子である皇子ドミートリーを僭称し、帝位を簒奪したことで知られる偽ドミトリー1世がモスクワ遠征の道中に一時的な居城にしていたこと。その際の拠点がモルチェンスキー修道院でした。その時に彼が使用した椅子と関連の史料がクライェヴェドチェスキー博物館に所蔵されています(当時の訪問目的は主にこれでした)。

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プチーヴリの概要はここまでとして。

このプチーヴリも今回のウクライナ侵攻の餌食になり、街中で「Z」と書かれたロシア軍の戦車が行きかっている動画を見たときは頭が真っ白になりました。同時に、モルチェンスキー修道院とクライェヴェドチェスキー博物館が無事かどうかも気になって仕方がありませんでした。歴史学の研究に携わった人間にとって、歴史的重要性の高い文化財の破壊ほど耐え難いものはないのだから。

修道院と博物館の状況を小まめに調べてはみましたが、破壊されたという情報はないようなので無事であると思いたいです。ただ、侵攻の影響は大きいようなので次に訪問できるのは当分先のようです。復興したらまた行きたいですね。

クライェヴェドチェスキー博物館。2017年3月撮影。
『イーゴリ遠征物語』にて、嘆きの詩を詠うヤロスラーヴァナの銅像。2017年3月撮影。
モルチェンスキー修道院。2017年3月撮影。
偽ドミトリー1世の椅子と関連史料。2017年3月撮影。

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次はスムイ市。ここの戦況は日本でも幾度か報道されていたのでご存じの方も多いとは思うが、侵攻開始早々激戦地となりました。当然、街はロシア軍によって破壊され、スムイは変わり果てた姿となってしまいました。自分がかつて訪問した都市の凄惨な姿ほど、見るに堪えがたいものはありません。

4月の奪還後は、一時避難していた市民が徐々に帰ってきて日常生活を取り戻しつつあるようですが、それでもまだ、空襲警報やサイレンが鳴り響き、予断を許さない状況に変わりはないようです。ロシア軍は去ったものの、やはり平穏な暮らしからはまだまだほど遠いようですね。まあ、こんな激しい戦闘があればたとえ敵が撤退したとしても「はい、いつもの生活に元通り!めでたしめでたし」とはいかないでしょう。

スムイの中心地2。2017年3月撮影。

プチーヴリとスムイは私にとってウクライナの都市のなかでも、特に思い出深い大切な場所。一日も早く平和になり、再び訪問ができる日が来ることを願います。

そして、ロシア軍による侵攻によって犠牲になったスムイ市の皆様、ご冥福をお祈り申し上げます。

以上。ではまた。