いつもブログを読んでくださり、ありがとうございます。ネフスカやあいりです。
旅行記ブログで挨拶から入ることはないのですが、今日はあえてそうさせてほしいと思います。
なぜなら、ここからは私が今回の東欧大旅行の一番のメインにしていたプチーヴリだからです。
実は、少しでもプチーヴリの魅力を伝えたい!と思い、5月末に京都大学で開催されました、東方キリスト教圏研究会様の例会でプチーヴリに関するプレゼンをさせていただいたのです。この時も熱く語りすぎて質疑応答の時間が無くなったのは失敗でしたが、話ができただけで十分にうれしく思います。東方キリスト教圏研究会の関係者の皆様には改めて感謝申し上げます。
「じゃあなんでここだけ挨拶するんだ」と思うかもしれませんが、それは、いつもと違ってはっちゃけるからです。今までの旅行記はその時の出来事をただ淡々と書くことが多かったのですが、そうだったばかりにいきなり文面が変わると読む人が驚くと考え、前置きをさせていただきました。
まあ、でも以前から、自分の旅行記がその時のことを無感情に書くだけのつまらないものになってきていると最近思ってきたばかりなんですね。どうせ自分の経験を不特定多数の読者の皆様にお伝えするのなら、やっぱり楽しいほうがいいですよね。これからそうするかどうかは分かりませんが(いつもの感じに戻るかも)、今回は感動したこと、嬉しかったことをありのままに書いていきたいと考えています。
前置きが長くなってしまいましたね。それでは今から旅行記が始めようと思いますが、プチーヴリはほとんどの人が聞き覚えのない街ですので、まずはプチーヴリについて簡単に説明していきたいと思います。
プチーヴリはウクライナ北東部にあるスームイ州のプチーヴリ市にあります。地図を見るとロシアに比較的近い場所にあるのがお分かりだと思います。高台に街があるのが特徴であり、歴史的に舞台になったのもうなづけます。その下には広大な平地が広がっており、なだらかなセイム側が流れています。現在の人口は2万人いるかいないかぐらい。下手したら私の母校(結構なマンモス大学です)の学生数よりも少ないかもしれません。
プチーヴリの位置はこちら
史料の初出は1146年とされています。しかし、街自体は1000年代からあったと推測されています。上記の通り、プチーヴリは高い第二位置していたので、要塞としての役割を果たしてきました。そのため、防衛上、歴史的に重要な街とされてきました。中世ロシアの最も著名な文学作品である『イーゴリ軍記』(キエフ大公であったイーゴリ公がポーロヴェツ人と戦い、敗北される実話に基づいた物語)の舞台にもなりましたし、イーゴリの長兄であったウラジーミル公の居城にもなったとされています。また、偽ドミトリー1世が帝位獲得のためのモスクワ遠征の際にも、一時的な居城にしていたことも明らかになっています。それほど、プチーヴリは魅力のあった町であったといえるでしょう。
地元では歴史上の舞台として有名は街ですが、日本ではほとんど知られておらず、Googleマップですら日本語表記がされていない有様です。
ということで、ウザイぐらい概要が長くなってしまいましたが、この辺にしていい加減に旅行記に移りたいと思います。それではご笑覧くださいまし。
※写真と文章は今まで以上にボリューム満点ですので、二回に分けて記事を書いていきます。
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3月15日。スームイ。起床後、一階にあるホテル併設のレストランで朝食をとる。この日はいよいよ行きたくて仕方がなかったプチーヴリに行くことに。
ここでは二つのうち、一つだけ好きなメニューを選ぶことができる。もちろん無料で飲み物も付いてくる。昨日のフロントのお姉さんが行先を教えてくれたついでにタクシーも予約してくれた。
偶然宿が一緒だった日本人のMさん(ロシア史の方!)と一緒に行くことになった。タクシーに乗り込み、バスターミナルまで行くことに。プチーヴリ行きの終点はないので途中で止まるバスのチケットを窓口で購入。ちなみに終点はここからさらに北にあるショストカという小さい街である。
早速マルシュルートカに二人で乗り込む。しかし、通る道はほぼ田舎だったので道が超悪い。あまりにも揺れるので窓際にもたれようとすると、頭をめっちゃたたきつけられる。これ結構痛い。一方で。Mさんが誰かと話をしていた。どうやら現地の男性らしい(以下セルゲイさん)。セルゲイさんとは途中の公園のところまで同行することになる。スームイから一時間ほどでプチーヴリに到着。
ロシア史学徒、プチーヴリに上陸、の巻
プチーヴリのメインストリート。予想通り店があまりなかった。
プチーヴリをPRするポスター。下にはウクライナ語で「プチーヴリの贈り物」と書かれている。その上に1025年と書いている。
メインの通りを離れるとほぼ道じゃなくなる
公園から眺めたプチーヴリの平地。セルゲイさん曰く、この日は霧がかかっていたらしく本来ならもっと先の景色が見えるということらしい。タイミングが悪かった。でもよかった。その先に見える建物は後で紹介するモルチェンスキー修道院。
ここでセルゲイさんとはお別れ。あとは二人で今回の旅のメインになる例の博物館に行くことに。
公園にあったイーゴリ公の妻で公妃であるヤロスラーヴァナの銅像。プチーヴリを象徴するシンボルとなっている。ここを音連れた人は必ず撮影スポットにする。
なぜヤロスラーヴァナなのか。それは、ロシアクラスタの中ではおなじみだと思う。ロシアの中世文学を代表する作品『イーゴリ軍記』で、夫のイーゴリ公がポーロヴェツ人の軍に敗北し、捕虜となった時に彼女がプチーヴリの城壁で有名な嘆きの詩を詠ったから。その嘆きの詩の場面は『イーゴリ軍記』の中で最も知られている名場面だからである。悲しくなると感傷に浸りたくなるのはなんでだろうな。
プチーヴリ唯一のクライェヴェドチェスキー博物館。入場料は10フリヴニャだが、写真撮影はそれと同じ料金を支払えば可能だということ。もちろん払った。当り前じゃないか、そこに偽ドミトリーが実際に使った椅子があるんだぜ?撮らずに帰るわけにはいかないよ~。もちろんこのときの私はありえないぐらいに興奮していた。楽しみで仕方がない。
入り口付近にあったイーゴリ公の肖像画。19世紀に書かれたっぽい。当然だが、プチーヴリはイーゴリ公の街なのである。
これもイーゴリ公。
最初は初期のキエフ公国時代の展示物。考古学的な史料がほとんど。
規模が小さいので、次々と時代が新しくなっていく。
そして。。。。ついに。。。。
ででーん
きたああああああああああ!!! これぞ本物の偽ドミトリーが使用していた玉座だ!!!
その隣にはわれらがおなじみの(?)偽ドミトリー1世の肖像画だ。もちろんこれはコピー
そしてそして。。。。
ドドーン!
修論の材料にしていた史料が登場!!!
自分が院生時代に読んでいた史料だぜ?すごくない?それが目の前にあるんだぜ?やばくない?
レプリカだけどね(それ言っちゃあ。。。)
ちなみにこの資料は、偽ドミトリーがモスクワ遠征の道中でプチーヴリを開城したとき、彼の帝位獲得のための支援を行ったポーランドの有力貴族で土地の所有者だったイェジー・ムニーシェフとプチーヴリの土地所有に関する取り決めをおこなったのだが、その同意書である。いやあ、それにしても感無量ですわ。自分の研究テーマに関係するものが博物館で見れるなんてねえ。
これはモルチェンスキー修道院にあった瓦の一部。
これはロシアで発行している伝記シリーズの『偽ドミトリー1世』の画像資料欄に掲載されている。すっごーい(フレンズ感)。
うむ、この椅子に本人の身体が触れていたと思うとやばい(語彙力が行方不明)。ちなみにこの椅子の前に20分ぐらいだろうか、ずっと見つめていた。要求がヒートアップして「触りたい!」という気持ちにかられましたが、さすがに展示物に触れるのはNGなのでやめといた。(てか、学芸員のおばちゃん近くで見てるしね)
歴史や考古学界隈の住民の皆さんはきっとこの気持ちが分かると思いますが、いざ自分の分野に深く関係する展示物を目の前にすると離れたくなくなるものなんです。二度と見れないかもしれないと思ってしっかりと目に焼き付きたいのです。分かるでしょ、この気持ち(笑)
ボロトニコフの乱発生時の地図。
聖ヨフの書籍。
これは偽ドミトリーの治世に街に残されたキリストの彫刻。これも偽ドミトリーの伝記に写真が掲載されていた。
ピョートル大帝とコサックの首長マゼッパ。ポルタヴァの戦いの様子。
もちろん、民族衣装や生活用品などの当時の生活状況が知れる資料も展示されていた。衣装が結構かわいいので着てみたい。
『イーゴリ軍記』1000周年記念関連の展示。このマトリョーシカがなんとも可愛らしい。その下にはタンブラーがあった。欲しい(笑)
アレクサンドル・ボロディンのオペラ作品『イーゴリ公』の過去の公演ポスター。
各言語に翻訳された『イーゴリ軍記』たち。その下に注目。
なんと、日本語版もちゃんと置いてあったのだ!いやあ、まさかこんなところに日本のものがあるとはね
我らが中村喜和先生訳と原初年代記である。
博物館周辺。思っていた以上に何もなかった。
そして何もない道をひたすら歩いていく。
何気なく国旗カラーになっている。砂場かこれ?夏になったらこぞってBBQとかピクニックとかしそう。
冬だから緑がない。
それでも民家は普通に並んでいた。コンクリートという概念はどこ行った。でもこうした何もないみちょを歩くのも悪くはない。いや、むしろ誰も知らない街に行っている気分が味わえて楽しい。
城壁の跡なのかこれは?上では工事をしていた。
そしてお目当ての数少ない名所モルチェンスキー修道院に到着。実はこの時少し迷っていた。実物は非常に広く、頑丈な石造で固められている印象だった。
まあ、これ以上書きだすと長くなるし、うんざりすると思うだろうから残りは後半に書きます。
では。