2017年3月17日 ウクライナ・チェルニーヒウ 最終日は中世都市で 

チェルニーヒウの景色を一望 ウクライナ

3月17日。旅の最終日はチェルニーヒウで過ごすことにした。

朝は残りわずかとなった旅の時間を無駄にしまいと思い、早めに起きた。

宿に無料の朝食はないので、外で食べに行くことに。まだ8時前で殆どの店が閉まっていた。諦めて近くのファーストフード店で済ますことに。ここで、不思議な事が起きた。この店にはBGMがかかっているのだが、なぜか、クリスマスソングだった。それも全ての曲が 笑

正教会がクリスマスの日としている1月7日はとっくの昔に過ぎているし、とりあえず訳がわからなかった。

最後のウクライナを楽しみたいからすぐに外に出た。早速中心部ヘ散策。チェルニーヒウは比較的小さい町なので、コンパクトに見たいものが見れる。

チェルニーヒウも、歴史のある都市の一つ。キエフ・ルーシ時代にはチェルニーヒウ公国が成立し、11−13世紀に繁栄の時代を迎えるが、モンゴルやクリミア・タタールによって襲撃、占領をされる。以降もモスクワ公国に占領されたりポーランド・リトアニア大公国の都市になったりと波乱に満ちた歴史をたどっている。フメリニツキーの反乱以降、形成されたヘトマン国家(簡単にいえばコサックの国家)の中央都市になったりと重要な位置を占めていた。関連記事はこちら

また、実はチェルニーヒウはプチーヴリの記事でもウザいほど触れた『イーゴリ公』のもう一つの舞台なのだ。イーゴリはチェルニーヒウ公国の公でもあった。

 

チェルニーヒウの広場。ムダに広い。なぜか知らないけど毎回最終日はいつも快晴なのである。今回もやっぱりよく晴れていた。

 

何かのモニュメント。ウクライナ語ではチェルニーヒウと言う。チェルニゴフはロシア語。ウクライナには、ロシア語とウクライナ語で違う言い方をする地名が数多く存在する。ここでちょっとした知識を。

ウクライナ語    ロシア語

ハリキウ   →  ハリコフ

キーウ    →  キエフ

チェルニーヒウ → チェルニゴフ

リヴィウ   →  リヴォフ

ボリスピリ  → ボリスポーリ

オデーサ    → オデッサ

チョルノーヴィリ → チェルノブイリ

こんな感じに変わってくる。日本ではロシア語の読みの方が普及しているよね。チェルノブイリもチョルノーヴィリといったら全く別のものに聞こえるかもね。

 

公園近くの大通り青々とした冬の空に公園の通り。

 

聖カトリーヌ教会。公園の大通りを通った先にある教会。1700年代にゲトマンの勝利を記念して建設された。もちろん私も中に入ったが。ほとんど人は来なかったが、旅行者らしき3人組が来たぐらい。そのうちの一人である女が頭に何もかぶらずに堂々と入ってきたので、おそらく非正教徒でかつ正教の知識のないままここに来たのだろう。

前の記事でも伝えたが、ロシア、ウクライナ正教会では、たとえ正教徒や非キリスト教徒であっても、女性は教会内に入る時はヴェールやフード等で頭を隠さないといけない。ロシアやウクライナで教会を見学する女性の皆さんはご注意を。

 

ゲトマンの胸像。おそらくフメリニツキーと思われる。

散策したこのチェルニーヒウディチネツ公園には、博物館や教会などの主な見どころがギュッと詰まっている。

 

 チェルニーヒウ古代博物館。主に古代の考古学的資料が展示されていた。二階まである。その後ろで修復工事をしていたため、工事音が結構響いていた。

 

 救世主の変容の大聖堂。11世紀ごろから存在していたとされる。チェルニーヒウでは最も古い教会。

 

 

 別の角度から撮影した救世主と変容の大聖堂。

 

リスさん(?)のおうちがあった。 いや、鳥かもしれない。わざわざ家まで作ってあげるなんて優しいなあ。

 

ウクライナカラーのフェンス

公園からさらに上のほうまで行くことができる。

 

なぜか大砲もどきが設置されていた。

 

チェルニーヒウの眺め。この日のうちにウクライナを去り、日本に帰ることを考えると一気に寂しさと辛さがこみあげてきた。2月20日に始まった東欧大旅行。日本を去ってから一か月が経とうとし、同時に帰国の時が迫ってきていた。でも21日には大学院の修了式があるため、帰らないといけなかった。月日の流れは残酷なぐらいに早いものだ。

帰国のことを考えて暗い気持ちになっていたところを変えようとするために歴史博物館に行くことに。

 

チェルニーヒウ歴史博物館。ここは10フリヴニャを払えば写真撮影は可能。

この博物館では、あらゆる部分まで手が込んでいて展示に工夫がされていて中々面白かった。特に最初のキエフ・ルーシのコーナーでは木版画があったり、キャプションのフォントも古代スラブ特有の字体を用いていて当時の雰囲気を出そうとしていた印象。撮影したその一部をお見せしよう。

 

入館して早速ユニークな展示物とご対面。壁にはクニャージ(キエフ・ルーシの公)たちが描かれていた。

最初の方は、主に生活用品や武器などの考古学的な展示物が多かった印象。

 

11世紀当時のチェルニーヒウ周辺。出土された武器とその一部。

 

信仰(国教化)のために使節を派遣するウラディミール公(下)とキリスト教徒と異教徒(上)。

 

西方に進出したモンゴル軍に虐げられるキエフ大公のイラスト。

 

歴代のキエフ大公たちの木版画。クニャージたちがコミカルに描かれていた。

 

モンゴル進出時のチェルニーヒウの状況が記述されている。右がロシア語、左がウクライナ語。

 

チェルニーヒウ公の家系図。系図をの本物の木を用いて表現されているのが粋。こういう遊び心結構好き。左上から5番目はあのイーゴリ公である。

 

夫イーゴリを暗殺したドレヴリャーネ族におぞましい復讐を遂行するオリガ大公妃。『原初年代記』から抜粋したものとされている。

 

「タタールのくびき」時代の武器

 

17世紀当時のチェルニーヒウ

 

フメリニツキーの肖像画光が当たって見えづらい

 

ゲトマンの権威を象徴するステッキ

 

ポルタヴァの戦いに関する資料

 

プガチョフの戦いに関する資料。この戦いはチェルニーヒウにまで及んだ。

 

ナロードニキ関係。写真の人物はそのメンバー。彼らの活動はチェルニーヒウでも行われていたとされている。

 

同上

 

19世紀のロシアで活躍していた歴史家ニコライ・コストマーロフ。彼は動乱時代に関する研究もしていて多くの著書も手掛けていたため、修論の時は彼の資料に大変お世話になったものだ。コストマーロフの母親はウクライナの農奴の出身で彼もウクライナで生まれて育った。その影響もあって非常な民族主義的な思想の持ち主でもあり、ウクライナの独立を強く望んでいた。コストマーロフは歴史家を中心に結成された「連邦主義者協会」の会員であり、独立に向けた活動もしていた。そのため、ロシアに関して否定的であったとされ、研究者の間でも常に議論の対象になっている人物だった。彼の民族主義的思想は文献にも表れて偏った記述をしている面があったため、研究の時に資料として扱うときは慎重にならざる得なかった覚えがある。

右の本はマゼッパに関する文献で左がコストマーロフの肖像画。

 

フメリニツキーの騎馬像のミニチュア版。

 

19世紀のコサックたち。

 

 19世紀頃の歴史画。

 

 博物館を出た頃にはお昼を過ぎていた。出発の時間は刻一刻と迫っている。急いで宿に戻って荷物を回収することに。宿の宿のオーナーに別れを告げた後、バスターミナルに向かった。出発時間は15:00.キエフ行きを何とか確保。この時最後の訪問都市をハリコフにすればよかったと後悔していた。

15:00にキエフ行きのバスは出発。チェルニーヒウとはここでお別れをした。

チェルニーヒウからキエフまでは約2時間で行くことができる。そのため、キエフから日帰りで行くことも可能である。

ばすが キエフに到着したのは17時ごろ。バスが停車したのは、地下鉄のデミウーシカ駅近くの中央バスターミナルだった。しかし、問題なのはここにはボリスピリ空港行きのバスは停車していなかったのでヴァグザーリナ駅まで行かないといけないという手間が発生してしまったのだ。そこで、デミウーシカ駅から独立広場駅で乗り換え、ヴァグザーリナ駅に行った。なんと時間は間に間に合った。

ところがどっこい、ボリスピリ空港行きのバスの停車場所が結構複雑だった。中央駅前にあるバスターミナルには停車しないということ。駅の窓口に聞こうとしたが、それ以前に私の顔を見て「外国人が来た!」と言わんばかりの態度を取られ、「ニェ ズナーユ!」といって小窓をパタンと閉めたのだ。まだ何も言ってない….窓口はあてにならないので、バスを探すことに。気が付けば、時間が過ぎていた。さすがに焦る。そこで、南口駅の方に向かったら、観光バスらしきものが停車していた。しかもバスにはAriportという文字が刻まれていた。「これはもしかして…」と期待し、その運転手に「これはボリスピリ空港行きですか?」と確認したら「そうだよ。乗りなさい」ということ。やった!これで無事に空港に行ける!

ボリスピリ空港行きのバスはキエフの南口駅近くに停車するので覚えておくこと。

が、安心したのも束の間、夕方というものあり道路は非常に混んでいた。そのため渋滞が発生しており、バスは中々前に進まない。ナンてこった。また焦る。無事につくことを祈りながら、車内のラジオで流れているスタス・ミハイロフの歌を聴いていた。メインの道路を過ぎると嘘のように渋滞はなくなった。それをいいことにバスは猛スピードを出して走行を始めた。キエフからボリスピリ空港は離れており、バスでも最低40分はかかる。

ボリスピリ空港には無事に到着。時間がなかったので急いでチェックインをした。キエフに来たときは実感はなかったけど、空港に来て初めて帰国する、という知りたくない現実に直面するのであった。ようやく実感がわいたのである。

そして一気に虚無感が湧いてきた。それと同時に楽しかった一か月の東欧大旅行を思い浮かべた。次はいつ行けるのだろうか。

搭乗までのあいだ、免税店をブラブラ巡る。まず驚いたのは店の数が少なかったことと、値段の表示がユーロだったこと(しかも高い)。だがここはブカレストの空港と違ってフリヴニャは使えるのでご安心を。

21:20、帰りの飛行機はイスタンブールに向かって出発した。さらばウクライナ、そして東欧!

 出発直後の様子、びっくりするぐらいに暗い(笑)

 イスタンブールに到着後は成田行きの飛行機を待機。無料のWi-Fiがポンコツで使えないので我慢大会状態だった。隣に待機していたトルコ人のおばちゃんが派手に咳き込んでいたので隣にならないことを祈っていた(もしなったら長時間地獄だ)。

搭乗の時に列には多くの日本人が。懐かしい感じがしたが同時に「本当に戻るんやな…」という寂しい気持ちにもなった。

2:25、成田行きの飛行機は出発。18日の19:50、無事に帰国。この後、空港近くのホテル(安宿がほとんど埋まっていたので少しグレードの高いビジネスホテルにした)に一泊し、19日の昼に関西に戻った。

これで東欧大旅行のブログはおしまいです。長いことかかった….